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“とにかく逢って欲しい漢が居る”

そう告げられた晩
彼、小林陽介は俺の夢枕に立った

“いつまで生きていられるかわからない
命が有るうちに遭わせたい”

片道5時間近い距離を走ったのは
呼ばれてる
そう感じたから

“雰囲気が似てる
二人が逢えばナニカが起きる
そんな気がする”


ナニが起きるのか
見てみたい
そういう衝動にも駆られ



…ヒジリ…行者…聖者…サドゥー…?

骨という骨が浮かび上がるほど瘠せこけ
ユラリと昇るように力みなく立つ姿は
悟りをひらく寸前の釈迦牟尼をかたどった彫像を思わせた
髭と髪の奥に鋭く光る眼は
達磨を思わせた

そんな彼も死を畏れ肉体の痛みに苦しむ
普通の人でもあった
神棚の前に跪き一心に救いを求め神仏に祈る姿が印象深い

大吐血で生死の境を彷徨った後にもう一度逢った
拍子抜けするほど元気だった
こりゃ持ち直したんじゃないか
病魔は去ったんじゃないか
そう思えるほどに
眼光を失わず
意識は明晰だった

病室で二人きり夜を明かした

その二度の機会
命有る誰もに平等に訪れる死をどう迎えるか
その瞬間をいかに氣楽に迎えるか
生死という陰陽の統合を
語り合い
手当てをした
とにかく肉体の痛み苦しみを緩和すること
俺に出来ることはソレだけ
手を当てることだけ
ソレだけで
死の淵を覗いてなおの痛み苦しみすら融かす
relax
は可能なんだという事実を見せて貰った




その後退院

それから2,000枚とも云われる量の書画を遺してこの世を去った
力みはなかったと伝え聞く



…あとあと思い出して見ると…
前に一度逢ってる!
一緒に朝まで太鼓叩いてるわ

上手いとか上手くないとかを超えた
ジャンル分けのできないオリジナルさで
自身への自信に溢れた
そういう音を出す漢だった

あの時も
昇る朝日に拝しお経らしきモノを大真面目に唱える姿が
あまりにも浮世離れしてて印象的で思わず名前を聞いたっけ

-俺ヨースケ

ぶっきら棒な漢だった

「小林陽介 作」の彫刻や絵画、書は見たことがあった
どんなヤツなんだろう?
とは思ってたけど
まさかソノ小林陽介と
アノぶっきら棒のヨースケが
同じ漢だとは思いもしなかったけど

間違いない



〜小林陽介を偲ぶ会〜にて
一堂に介した作品群
ことに退院後の一ヶ月ほどの間に書いたと聞く書画には
死を受け入れ
かつ
死を超えてさらに飛翔しようという
そういう心象を見た

あぁ、彼は超えて行ったんだなぁ
生死を超えて飛んだんだなぁ

悲哀抜きの爽快感を見た

彼の作品
ほとんどが初めて見る作品
大量の作品

36歳という若さで
これだけ大量の作品を
これだけ気合いの込もった作品を大量に作り続けた
その激烈な熱量に圧倒された

…と同時に
繰り返し繰り返し表れるモチーフをメタファー暗喩として捉えれば…

天狗
達磨
布袋
アマテラス
大日如来
不動明王
薬師如来

九尾の狐
八咫烏
鹿
この世のモノとは思われぬ精霊たち…



ふと
気がついた!

…彼が自身の最期を覚悟してからの棲家として選んだ
熊野という土地に込められたメタファー…

繋がる!
俺わかっちゃった

ヨースケくん
わかってたんだ
っていうか自分で選んでたんだ
そう望み
望む通りを生きたんだ

あの場所も
自分自身の逝きざまも

100号のドでかいキャンパス
退院後に描いた一連の大作は
道教に伝わる純陽化のプロセスを描く絵や
禅の公案「尋牛』の通し絵に似てる
っていうか同じ…

純陽化とは
太陽を存思し
太陽に向かい
太陽と一つに繋がり
太陽そのものとなる

純陽化
それは神仙の術
不老不死の仙人への道
古代から続く魂の錬金術
練丹術の最終到達点

それは世界各地あらゆるところに古代から信仰された痕跡の遺る太陽信仰と直結する

天照大御神
大日如来

太陽
純陽のシンボル

そして龍
龍もまた世界中で古代から畏れ敬われて来た存在
それはエネルギーの象徴
太陽はエネルギーの塊


熊野といえば修験の地
古来天狗が飛び交うところ

天狗といえば超越者
修行の末に常人を超えた能力を開花させた人
特異能力者

行者たちの社
熊野大社が祀るのは八咫烏
八咫烏は太陽へのガイド
太陽信仰

また熊野古道で繋がる高野山は
弘法大師 空海
空海は今もなお生き続けているとされる
不老不死


…仙人が棲むにふさわしく
山深い彼の終の棲家の脇には
まるで龍自身であるかのように川がのたうち流れ
その川沿いの一本道を少し降ったところ
玉置神社の看板…
前に来た時は気にも止めなかったその看板を見て…!

…神社のシンボルは九尾の狐

玉置神社
玉を置く神社
魂を置く神社

詳しい友人に聞いたところ
九尾の狐は蛇の化身であってやがて龍となる
とされているらしい
また人にも化けるとも

玉置神社は龍になる場所
魂を置いて

陰陽を八の二乗64分割して世界を捉える「易」という世界観では
陽のなかの陽のなかの陽
つまり純陽を「乾」と呼ぶ
乾坤一擲の「乾」
これを現す動物は龍
純陰「坤」を表す動物は牛

「乾坤」
乾は純陽
坤は純陰
陰陽それぞれの極みの極みの極み
反対側へとひっくり返るまさにその一点

龍と牛は陰陽それぞれの極まりのメタファー
神仙の世界観の根本を支える太極観を表す

燃え盛る焔を背負った険しい不動明王は陽
柔らかさの極みの薬師如来は陰
これも同じ話

…純陽
陰中陽有り
陽中陰有り
絶対的に純粋なる陽など存在しない
それはどこまでも入れ子である
というのが陰陽の基本的考え方のなか
純陽とは?

陰陽を超える

輪廻を超える
因果を超える

生死を超える
そういうことだ

最初っから
彼は超えたかったんだ

病を知るよりも前から
そういう予定だったんだ

飛び立ちたかった
あらゆる制限を超えて
超越したかったんだ

不意の病によって番狂わせの予定変更に戸惑いはありつつも
ハナからそのように向かってたんだ

熊野
那智
玉置神社
達磨
天狗
八咫烏
九尾の狐


太陽信仰の修験の地
熊野で
玉置神社に魂を置き
八咫烏に導かれ
那智の瀧を昇り太陽へ
太陽そのものに
純陽化
龍となった
生死を超え
不老不死を得た
作品のなかに魂を置いた
作品に総仕上げの魂入れをした

そういうストーリーをハナから描いてた
そういう逝きざまを描いてた

そうして自分自身の生きざまそのものを
作品として完成させた
磨き続けた魂を入れた

思ってた以上の加速度に
気持ちと身体がギクシャクしたりもしたけれど

痛み苦しみに心揺らぎながら
迷いながらも
最期は落ち着いてrelaxして逝った
自分の思い描く自分を生ききったんだんなぁ

凄いやつだなぁ

やりきったんだなぁ〜


「トンデモナイこれから飛ぶんです」:小林陽介



そうそうそうだよね
満願成就してこれからだよね


似てると言われる漢
何がどこが似てるか
ちょっとわかった

古代の先達が生きた世界観を共有したい

知識として
情報として
だけでなく
体感として

時間も空間も飛び越えた共感
それを体感したかった
した
しきった

そういうことなんじゃないかと


世界観そのものになりきったとき
その命は永遠となる
なぜなら
その世界観を生きる人がこの先も生き続けるかぎり
その人たちのなかに在り続けるから

そういうことなんだと

〜偲ぶ会〜にて
天狗の面をかぶり
依り代となったこともあいまって
そう感じます


俺が彼と出逢ったことの意味は
散りばめられたメタファーの読み解きにあるような
そんな気に迫られ
〜偲ぶ会〜以来のなんだかモヤモヤを
こうして言葉に降ろすことで
荷を降ろすことができるような気がします

途方もない話だけど
マジでそういう生き方を貫いた漢がいたんだ
彼の痕跡からはそう読める
それをどう評価するかは抜きに

そしてそういう生き方は儲からないこと
どうも確かな事実らしい……………

俺はどう生きよう
どう逝こう

氣楽に行こう
そうしよう(^_^)


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by kei-grande | 2018-01-19 18:56 | Outros その他 | Comments(0)

A→B
点Aから点Bへ進む とは
点Aから点Bへ退く とイコールだ
進化と退化は等価である
:大澤如一

得るモノが有れば失うモノが有る

進化の道は百花繚乱多種多様
でも
モトをたどれば?


始まりに還りたい
始まりの地点に着地したい

“何を得て何を失ったか”
ソレを知りたい



いったい俺はナニを作りたいのか
ナニをしたいのか

そのヘンがはっきりしてきたコノゴロ

〜木を彫った漢
“小林陽介”を悼む〜

木を彫ると掘るの違いはあっても
なんか似たモノを感じる
そういう漢でした


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ジャンルレス
カテゴライズ不能
身のうちから湧き起こるエネルギーそのまま
一切の形式に捉われることのない原初の勢い
そんな印象

彼の魂は虚空へ還って逝ったけど
彼の命の輻射熱は
たくさんの命を加熱した

俺もまた加熱されたクチ

そういう漢でした

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…どエライエネルギーを貰いました

有り難うありがとうアリガトウ



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by kei-grande | 2017-11-24 20:25 | Outros その他 | Comments(0)

たまご



リンガ

…だと思ってたけど
最近どうも…

卵じゃないかと

太鼓の叩き手
ことにアタバキの叩き手は男が担うという文化的背景から考えると…
その方がしっくり来る


命の原形

太鼓が豊穣に繋がるのはそういうことだ


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by kei-grande | 2017-09-25 18:50 | Outros その他 | Comments(0)

輪・ワ・和

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何個も、なんこも、ナンコモ、輪っかを造ってて思う

どこをどう叩けば純円に近ずいていくのか

そのバランスの見極めは
整体によく似ている
というか同じ感覚

違うことしてるけど
同じことをしてる

綺麗な丸はバランスが良い
バランス
身体もバランス

◯は調和の象徴なんだな

調和とはバランス

No balanço do mar ioiô
No balanço do mar iaia
No balanço do mar ieie
No balanço do mar

バランスとは揺らぎ

波だ。



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by kei-grande | 2017-09-21 17:43 | Outros その他 | Comments(0)



“故郷は遠きにありて思うモノ
そして哀しく唄うモノ
よしやうらぶれて異土の乞食(カタイ)となるとても
帰るところにあるまじや”
:室生犀星

昔っからなーんかこの詩の情景が好きで
なかでも“カタイ”という響きがグッと来るのです

投げ銭で生きる
自分の価値というモノの決定権を手放して
お天道様にお任せする
という姿勢には神聖さと同時に世俗の底へ底へと降り立つような
ま逆のベクトルが二つ同時に存在するかのような
不思議な感覚

この何年か少しずつ少しずつ
WSはじめ太鼓の販売や演奏に整体、ときにはただのお喋りだったり
あらゆるモノコトを投げ銭という古くて新しい方法で売るというコトを
少しづつ少しづつ試しながら拡大してきました
憧れのカタイへと一歩一歩…

投げ銭、儲かるか?と言われると
とても大金持ちにはなれそうもなく

かといってボラれるというと
そうでもなく…
ぼちぼちといったとこです

自分の胸のうちでの想像を上回る価値を付けてくれる人も居れば
払うに足らないと判断されることもなくはなく

とはいえ総じてボチボチでんな

この投げ銭システム
何が良いかって

楽!

これだけ稼ぎたいからこれだけ働かなきゃ
とか
この値段で売るならそれ相応にやらなきゃ
とか
自分で自分の価値は落としたくもないし
上げるのもどこをどう上げれば良いのやら…
あーでもないこーでもない…

そういうのちょっとずつちょっとずつ試し試し手放し始めたら…

あれ?
なんかちょー楽じゃん!

同じモノあるいはサービスを
人が違えば違う値で買って行く
それぞれがそれぞれに自身で決めた対価を払うとき
買った側に損得はなく満足だけが有る

これ売る側にとって、ちょー楽!

高かったかな
安かったかな
と思い悩む必要がない

そのときそのとき
向き合ったその人とただ対峙するだけ
無心になってその瞬間に集中できる

特に整体
これは絶対にして侵すべからざる聖域だった
俺はこれで喰ってるんだからという思いから

ここを崩すのは思い切りが必要だったけど
いざやってみれば少額高額いろいろだけど総じてボチボチ
何より楽なのが良い

やるコトはいつも本気
100パーで向き合うそれだけ
氣楽に

価値とは関係性に置いていくらでも変化するモノで
決まった絶対の価値なんて存在しないってことを否応なく思い知らせてくれる

自分とはなんなのか
ワタシとは
ワタシの価値とは…

そんなモノは無い

ワタシとは関係性のなか変動するモノ
そういう感覚が「梵我一如」なんだなぁきっと

銭金の勘定を置いとけば
自分が幾らとかどうでも良くなる

でもそんなんでやってけれるの?
と問われれば

まぁボチボチでんなぁ
なんとか生かさせていただいております

とそんな感じ

生かさせていただいている

ワタシという存在はワタシ以外のすべてとの関係性に置いて生かされてる
そういうモノなんだという実感

これが「縁起」だね

定価を付けるそれはある意味
それを決定した時点で関係性の幅を決定するといえる

そういうのを少しでも外してみると…
今まで見えなかった世界が目の前の開けてくる

モノには値段がついているのが当たり前の社会で生きてると見えなかった世界が
そこには見えてくる

投げ銭、面白いよ(^_^)

みんながみんな投げ銭で自分の仕事=遊びの一部でも売るようになったら
世の中もっと生きやすくなるんじゃないかなぁ
お氣楽な世が来るんじゃないかなぁ
とか思ったりするこの頃…


“ふるさとは遠きにありて想うモノ
カタイ暮らしも忙しく
やりたいコトが次から次へと
帰る暇などありゃしない”
:愚


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by kei-grande | 2017-09-07 21:10 | Outros その他 | Comments(0)

祭りの夏を走り抜けて

8月あたまからこの方
よう走り回りました






































いろいろあり過ぎて頭ん中しっちゃかめっちゃか
その混沌のなか見えて来たのは

“土着”

なにが良くてなにが悪い
なにが正しくてなにが間違ってる
いくら頭で考えても答えの出ることはないこの問いも

様々な地域
様々な風土
様々な慣習
様々なジャンル
様々な人ひとヒト

世界は様々に違えど
土まで降りてくればみな共通の場に立てる

なにが正しくて
なにが間違ってるいるのか
なにが良くて
なにが悪いのか

同じ土に足を着けて
お天気の話から
畑の話でもすれば
その人がどんな考えをベースに持っているのか
だいたい分かる

それが良い悪いは置いといて

ベースまで降りて行けば
誰でも同じ音のウネリに共に乗れるんだから
上手いも下手もなく

同じ土の上に共に立てれば良いも悪いもなく
認め合うか合わないか
それだけの話

そんなことを
いろいろあり過ぎたいろいろのなか
ざっくりまとめるとそんな感じを

作りたい太鼓の新しい方向性が見えて来た!
やりたいコト様々を繋ぐ一筋が見えて来た!

そんな夏の太鼓日和
でした…(^_^)


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by kei-grande | 2017-09-06 16:50 | Outros その他 | Comments(0)

太鼓は育つ

太鼓は育つ

音が育つ

皮張りました
で完成!
なわけでは…
じつはなかったりする

一見
っていうか一聴
鳴らない太鼓

鳴らない
思い込んでた太鼓

なんか触ってるうちに
だんだん だんだんと
鳴るようになってくる

不思議なもんで

なんで鳴るようになるかは置いといて
明らかにそういう現実が有る

お前、どういう音が出せるの?
と問いかけるように叩く
というより触る
これを続けていると
ある時 ふっと思いもよらない響きが生まれ出る
そういう瞬間がある


思いもよらない響きを引っ張りだす

太鼓から音を引き出す
そういう意識で触ってると

だんだん だんだん
太鼓全体が鳴り出す

そうするとね
俺以外の人が叩いてもその響きは再現されるの

不思議


音を引っ張り出す

そういう感覚が最近面白いここ最近の太鼓日和





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by kei-grande | 2017-09-06 16:21 | Outros その他 | Comments(0)

8月のアレコレ

8/5・6




九州一円を代表する南米音楽の祭典!

新作取り揃えた楽器販売と
“シンプルな素材でシンプルな楽器作り”
“リズムあそび”
ここ最近かたちになりつつある
ここんとこのスタイルで出店しつつ
ひさびさのカポエイラを前に
血が騒ぐのです( ^ω^ )


8/17
『八祭』




徹夜踊りで知られる郡上八幡
郡上踊り
なんとこの祭り
四日間ぶっとおしの徹夜で踊るというだけでも驚きの祭りなんですが
夏の間ずーーーーっと
ほぼ毎日徹夜踊り以外の日もやってるっていうブッとんだ祭りなのです!

そしてこの夏唯一の公休日
徹夜明けの17日!

この伝統の祭りに新しい風を吹かす
新しい祭りが開催されます♪

伝統の上に形作られ守り継がれて来たスタイル
伝統を下敷きに生まれ出た新たなスタイル
とが出逢うときに生まれる新しいナニカ

それはいったいなんだろう?
きっと面白いことが起きるに違いない


そういう感じで盛り上がって生まれた祭です


いわゆる伝統とは違う形ながらも
やっぱり根っこの部分で民謡の血筋を受け継いで現代に生きる音楽
型としての伝統文化
民謡の
確率された一つのスタイル

とのコラボレーション

さらには…

伝統が伝統として守り継がれ受け継がれて行くなか
時代の変遷と共に
蓋をされ
表舞台から姿を消す
そんな伝承の断絶や改編
ということは
どんなことに置いてもよく有る話で

この祭の隠れたもう一つの目玉が
「むかし踊り」の一夜限りの復活!
現代に置いては歌詞が卑猥過ぎて放送禁止用語満載の

そんな今は封印されてしまったかつての生々しい民踊歌

聴けるらしいですよ♪
めちゃ楽しみ( ^ω^ )

土地と共に人から人へ受け継がれて来た音楽は
その土地と人とを繋ぎ合わせる
すなわち
グラウンディング
地に足が着く
そういう力を持っている
音楽ってそういうこと
なんだと
思ってたりする


そして
8/19は三国山



djembe
じゃんべ
へと
この土地に土着させた偉大な先人
内山伸治さんの遺品の一部を
音の鳴る状態にまで仕上げちゃおう♪
という企画

午前10時くらいから日が暮れるまで
もしくは暮れた後も
のんびりゆっくりおしゃべりしたり
内山さんの奥さんの振る舞いをいただきながら
呑める人は呑みながら

作ろうかと

音あそびもね


そんな感じの8月に突入!
気持ちがまだ追っ付いてないけど




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by kei-grande | 2017-08-02 22:23 | Outros その他 | Comments(0)

ミチミチのトモガラ

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中世の日本
士農工商といったザックリとした身分制では捉えきれない
多様な暮らしの姿があったことを掘り起こした歴史学者 網野善彦
網野史観から生み出された小説家 隆慶一郎の作品の世界観に憧れた

そこに登場するのは
「カミナシ・上無し」を標榜し
権力の庇護の下につくことを良しとしない自由な民衆の姿
職能民に芸能民、武芸者や山の民、川の民、海の民…

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それぞれのフィールドが違えど身も心もひとところに縛られることを嫌い
己の持つ才覚で天下を泳ぎ渡る彼らはまた
「道々の徒・ミチミチのトモガラ」とも呼称した

自分の先行きに息苦しさしか感じれなかった時代に
希望の光となったこの世界観
何を持って俺は生きる?
っていうところを考え出したきっかけ

そんなふうに自由に生きたくて生きたくて生きたくて…

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あれ?

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やっぱり?


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昔の話ってだけじゃないじゃないよね
これって現在進行形である人の営みそのものじゃん


っていうのをヒシヒシと感じるこの頃

「みちみちのともがら」はそこかしこに居る

そんなふうに思います。



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2017年も半分以上過ぎての雑感まとめ

自由になりたい
自由でいたい

ひたすらそれに尽きるなぁ

太鼓
音楽
カポエイラ

整体

全部そこに集約される





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by kei-grande | 2017-07-24 22:05 | Outros その他 | Comments(0)

「アート」って…なに?

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先日
「アート」な香り高い場所へ

https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=1689585791344165&id=100008782806069

人前で対談をするという初めての機会を頂きました

「職人」という言葉も
太鼓作りに置いてはまだいまいち自分のなかでしっくりとは来ていない感じなんですが

果たして自分は職人といえるほどの突出した技をもっているのか?
という疑問
同時に
じゃ、まだ見習い程度か?
というと
それもまた違う
この拙さを持って自分の価値を問おうという肚は座ってる


じゃ、「作家」?
「職人」とは何が違うの?

または「アーティスト」?

「アート」ってなに?

アートという言葉が「藝術」と翻訳されたのは確か明治に入ってからのこと
わりと新しい言葉

じゃぁ、まず「藝」ってなに?

芸能・武芸・芸事…

どうも、この「芸・藝」という字は
喰ってくためには一見有っても無くてもどちらでも良いこと
直接的生産に関与しない
ハレ・とケで云えばハレ事に関わる技
音楽、舞踊、など祝祭を彩る技術
そんなニュアンス

「術」とは
広く暮らしのスベ
それぞれの暮らしの営み全般に置ける身体運動をより楽に
より構造の理にかなった身使いへと
工夫に工夫を重ねた歳月の分だけ深みを増し続ける
言ってみれば
筋力など加齢と共に必ず衰えるモノから来る力に頼らない
“力の性質の転換の技”(これを中国では功夫という)の道筋こと
と仮定する

それは生まれ持った才能じゃない
若き天才はいても
名人、達人と言われる人は必ず老人であるという事実

技の上限を限定しないで工夫をし続けることでどこまでも進化・深化し続ける道筋
それがたぶん「術」という言葉に含まれた意味

ということは「藝・芸」も「術」も同じことと言っていい
「術」の方が概念としてはより広く、その中に「藝」の概念が包摂されてる

ということは
「術」はハレもケも含み
「藝」はハレ事オンリー

「藝術」という言葉は

藝+術=藝(ハレ)+術(ハレ・ケ)=2ハレ+ケ

で、ハレの要素が強く印象づけられている
そんな勝手な推測…

だから

日々喰うのにカツカツの俺たちには藝術ってよく分からんし
なんか難しいんでしょ
お高いの?

みたいな
雲の上の話みたいな印象なのかも

昔なんかの雑誌で読んだ
スペイン語では日本語的な感覚でのゲージュツ家といわゆる職人どちらもアルチザン(アーティスト)と呼ぶって

ポルトガル語でもやっぱり
Artesão

日本語にすると響きが違うけど
要は同じってことですね

さらにアートの始原を
語源を音からたどれば
それは古代インドの思想哲学にある
“アートマン”に辿り着くんじゃないかと

まったく根拠はないけどね

ブラフマン・梵
アートマン・我


ブラフマンは宇宙の原理原則
アートマンは自己存在の中心

梵と我
部分と全体は等価である
とする考え方を
『梵我一如』
という

陰陽太極とよく似てる
っていうか
同じコトを違う切り取り方で捉えてるだけ
文化的違いだね




どうしようもなくそれがしたい
という身の内からの衝動
自己存在の中心からの欲求

それがハレであれケであれ
日常茶判事であれ祝祭事であれ

アートマンの働きと共に在ること
それがアートだ!


どうしようもなく太鼓が作りたい
どうしようもなく身体を整えたい
どうしようもなく土に触りたい
どうしようもなく裸足になりたい

これはアートマンの働きだ

どうしようもなく富士山麓の現状をなんとかしたい
どうしようもなくケモノを捕らえたい
どうしようもなくホネが好き
どうしようもなく解体が好き
どうしようもなくダニが好き
どうしようもなく“神の一杯”の珈琲が淹れたい

全部アートだ

どうしようもなく絵が描きたいことや
どうしようもなく音楽が創りたいことや
と同じアートだ

やりたいことをやる
それがアートマンひいては等価であるところのブラフマン
世界の根本原理に従うこと…

そういう話?






…先日のお話会のなか、鹿をテーマに扱った豆さんの作品に込めたメッセージに対し

「アートの本筋から離れてる!それはアートのすべきことではないのでは?」

みたいな
参加して下さったある方からの発言を受けて…

俺なりにモヤモヤしてた「アート」と「職人」について
考えてみたこと。

ちなみに今、太鼓関しては
年季奉公が明けて独り立ちして数年くらいの
“脱新米中の職人”
みたいな感覚がしっくり来る






『ボディワーカーもミュージシャンと同じアーティストだと思ってるよ
技術を持つ人はみんなアーティストだって』
:Deva


『アートじゃ喰えん って意味わからんし』
:白砂勝敏



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by kei-grande | 2017-06-05 19:49 | Outros その他 | Comments(0)