自分というモノを知るには
自分とはぜんぜん違う人が必要なようで…

ぜんぜん違うのに
どこか相通づるモノを感じさせてくれる人

そういう人と出逢えたらサイコーですね


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《sumikov》

“暮らしのすみっこにある幸せ”
をコンセプトとして様々なオリジナル楽器を作られています。

パンデイロ繋がり(➕鹿皮繋がり)でいただいたご縁。

お互いの作風はまったく正反対ながら
根差すところは同じところに在ったりして
話をするたび新しい発想を気づかせてくれる
言って見れば“同士”のような…そんな仲。




楽器とは
表現者の発想しだいで無限の可能性を持つモノ

ほかにはないオリジナルの楽器には
すでに確立された奏法など存在しない

だからこそ誰もがまったくのオリジナルで
真っ白な状態で向き合うことができる

音楽の始まりの地点
創造の始まりの地点
想像の始まりの地点

誰もが“始まり”の地点に降り立つことができる


“暮らしのすみっこにある幸せ”

なにかを創り出すこと
まったく新しいなにかを
自分自身の手で創り出したいという身のうちから湧き出る欲求
それを満たしていくことに
人は幸せを感じる生き物なんじゃないかなぁ〜

たとえ手の平にのるくらいの小さな創造
でも
人類の暮らしを一変するくらいの大きな創造
同じだけの幸せを得ることが出来る生き物なんじゃない?

人間ってやつは…

みたいな想いが込められている
とか思ったりします。






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試奏してみて欲しいと贈っていただき…


“始まりの地点に降り立ちたいのは俺
すみっこの幸せを作りたい彼


幸せとは日々想像すること
新しいナニカを創造すること
と仮定すれば

幸せ=創造の開始

そこに大小による優劣という比較概念は用を為さない”


…みたいな思想を巡らせてみたのだった(^_^)












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by kei-grande | 2017-05-24 20:06 | Outros その他 | Comments(0)

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太鼓屋で店を出しながら
太鼓は一個も売らず

気持ちの良い音楽のもと
ふだんよりも沢山の人の身体を触り整えつつ
太鼓で遊び
太鼓に学ぶ

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翌日は富士山麓の環境について
太鼓屋の目線と整体観から話をし

今週末の橋の下世界音楽祭では
WS出店をしつつ一方では
「まぐあいを聴き語る会」に太鼓で盛り上げ役と整体観という部分で関わる





自分の持ってるモノで人様のお役に立てるんなら
なんでも節操なく

…というここのところのスタイル

さまざまな場で出会うさまざまな人の
暮らしの多様性
多様な価値観と触れるなか
それぞれを根底で突き動かしている情動の
それぞれ違うモノ同士がココに置いて共有できる
共鳴できる感覚のポイントって

この感覚ってナイヤビンギでのハートビートの感覚に等しい
根底にあってすべてを支えてるモノ
それが了解できれば
そこを共有してさえいれば
違いは対立しない
違うモノ同士が一つのウネリに乗れる
かえって
みんな違うからこそそれぞれの持ち味が光る
その場限りの
そこに居合わせた人が
作り出す
生きた音楽
地に足の着いた血の通った音楽が生まれる…


どんな音楽でもその根底に在るところに着地出来たら
着地点さえ見つけれれば
誰でも遊べるモノ

なんじゃね?
音符という記号ありきが音楽ではなく
音楽をデータ化可視化したソフトが音符なんだという話で。

どんな価値観であれ
お互いが一緒に立てる地点を見つけれさえすれば
違いは対立を産まない
人は誰とでも遊べる…

それぞれに違う命
喰い喰われるという関係性においても
それは同じことなんじゃないか
命の根底に潜れば
喰い喰われは
活かし活かされ
と同じこと

なんじゃね?
みたいなことを
感じつつ

そんな感じのなかから
また思うこと…



【生と性と死、心と身体とタブー、そしてグラウンディング】

“心”と“生”の二つが合わさってなる“性”

心=脳の働き

であるなら

身体感覚=脳の働き

すなわち
身体感覚は心の一角をなすといえる



身体感覚とは“生”より芽生える

であるなら

“性”とは身体感覚感覚に基づく心の働きのこと
身体感覚=性

といえる。



身体感覚に基づく“性”という脳の機能は同時に、
ともすれば浮遊しがち思考(全体として捉えた心という脳の働き)を
リアルな“生”に繋ぎとめる役を担っているともいえる。

「地に足の着いた血の通った知」
それが“性”という字の表す概念
なんじゃないかと…

という前提で“性”を考えると
男と女、微妙な身体構造の違いが微妙な“心”の働き方の差を生むのはなっとくできる話。
たとえ同性であろうとみんな違う身体
みんな違う考え方をするのはそこから来てる。
実際の形の違いが脳の働き方に違いを生むのだと。



つぎに“生”の対義語、“死”について考えてみる。

一皮剥けば、ヒトもケモノもどれも似たようなモノ
同じような肉、同じような骨、同じようなハラワタ
開いた腹から立ち昇るのは血と糞尿と、その他なんなのかわからないけどあらゆる“命”を形作っていたモノすべての入り混じった匂いの湯気

このビジュアルや匂いから喚起されるイメージ、それがたぶん“死”の概念。

だけど自分自身の“死”は死なないかぎり絶対に!体感出来ない
ということは
自分自身の“死”という概念は生きてるかぎり絶対に自身の体感として認識することはできない浮遊したイメージでしかない
といえる。
「地に足の着いた血の通った知」では認識出来ない概念であると。


わからないから怖れる
見たくないから蓋をして
無いことにして置きたい

体感としての“性”で捉えることの出来ない“死”という概念を喚起させるモノを遠ざけたいという心理がタブーを生む?

“臭いものには蓋” 的な
死=臭い



もう一つのタブー
“性”の字が持つもう一つの側面、エロについて

エロスの対義語はタナトス
エロスとは萌え上がる“生”エネルギー
タナトスとは否応なく背中を押される“死”への一本道

死はタブーで生までもタブー
まぁ、生も臭いからね

なんのこっちゃいだけど
ここで陰陽という概念を引っ張り出して考えてみるとスッキリする

陰は陽に陽に陰に、それぞれ極まりに置いて転化するのが『道tao』で語られるエネルギーの変化の法則

生の極まりが死であり
死の極まりが生


タブー視されているのは生死そのものではなく“極まり”?

あ!
だから極道はタブーなんだ

“極まり”=タブー

極まりとは正反対の性質へとひっくり返るトコロ…

変化を嫌う

これが“心”の本質なのかも!

一方で“性”はリアルな身体感覚に応じてコロコロと形を変える
一見すると不確かなモノ
だから頼りにならない
と“心”は判断するのかも
リアルな世界は常に変化し続けて留まることなんてないのに。

そこんところ
“性”と“心”の喧嘩
これがコリになって身体を縛るんだろうな
ふと。



・後書き的な…

観察者がいなければ世界は存在しない
世界はすべて幻なんだというこの世界観

あぁ量子論ね
っていうくらい認知された感のある世界観

そういう前提でみれば世界は自分しだい
という非常に面白い価値観

…なんだけど
何か引っかかる違和感…
その正体がわかった

それは浮遊感

地に足が着いていない感覚
身体感覚で捉えがたいんだよね

それぞれの人が見ている世界は
それぞれの意識のフィルターを通したモノしか見えない
見えないモノ=存在しない

理論としてはわかるけど…

しかし世界は厳然として在るモノなんだと
“性”の部分で感じていることを
感じた今朝

狩猟解体のプロフェッショナルと
昨晩の対談での違和感を振り返るなか

ふと。

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感覚に蓋をしても
いつか溢れ出す
否応なく押し寄せてくるモノ

それは突然襲ってくるぎっくり腰のような

厳然とあって常に関わらざるを得ない
関わらなければ関わらないほど
蓋をすれば蓋をするほどに

ドカンっと関係性を迫ってくるモノ

それが自然
自分の身体も含めた
自分の意識の世界の向こう側

あちらとこちら

どちらもあって一つ

『一陰一陽これを道という』:老子






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by kei-grande | 2017-05-22 19:40 | Outros その他 | Comments(0)



音楽ナメてんじゃねぇよ!

真剣に音楽がやりたいんか、ただ目立ちたいだけなんか
どっちなんかハッキリしろ!

とある機会にド叱ってくれたのがデヴァさんでした。


音楽ってショージキよくわからんのです

わからないなりに適当に叩いて
なんとなくで
太鼓触り始めて17年目のことでした

音楽やってるって感覚はあんまりなかったのです
ただ太鼓を叩いてる
それだけ

でもデヴァさんの雷が落ちて以来

アレ?
音楽ってどういうこと?
音楽のなんたるかがわからないままただなんとなく叩いてる俺でも
音楽として太鼓を捉えれるようになるの?
捉えてもいいの?


みたいな…
なんというか
新鮮な気持ちに


そんな転換点からまだ一年経ってませんが
なんか意識が変わって以来
すごく自分自身の出す音が変わった自覚有ります

そうこうするうち様々な繋がりのなかで
楽器提供という形でデヴァさんのWSとコラボさせて貰えることとなり
第一回、第二回を終え


今までにほとんど知ることのなかったジャマイカのリズム

ハートビート


その構造のなんとなくの概要とその音が心身に及ぼす影響を感じるにつれ

逆に今まであまり意識することのなかった
ブラジルのリズムの持つ構造とその音が心身に及ぼす影響というのを
感じれるようになった感と同時に
血のなかに在る和のリズムや
様々に枝分かれして来た人類という種の根っこから来るリズムみたいなものも
ボンヤリとながら感じるこの頃

習い
身体に慣らしてきたけれども
ホントのところ
しっかりと音を感じてなかったなぁ

という発見!

自分にとって馴れていることほど
無意識になりがち
無神経になりがち

馴れないことをすることによって
比較が出来る

対象があって始めて無意識的に習慣化されたことが意識化出来るんだ
という気づきのなかから

音楽とは
音が心身に及ぼす力を理解したうえで
意識的にその音の効力を発揮させること

…なんじゃないかな

みたいなことを
学んだというか
気づかせて貰ったというか
予感させてくれた

濃いぃ〜WSでした!

だからといって急に凄く叩けるようになった
というわけじゃないけれど

少なくともこれが“音楽”というヤツの一つの入り口なんじゃないかという予感だけは
確信的に有るのです。



いわゆる“学校教育”のなかでの音楽の成績はだいたい1か2でした

そもそも音符が読めない
文字を覚えたばかりの子供が
その一文字一文字を指で押さえながらたどたどしく読む程度にしか

五線譜の5本の線のどこに音符が有るのか
パッと見で掴めない

音符のあらわす音の長さの概念はかろうじて
だけどそれがゴチャゴチャと続いてるともうわかんない


そんなちょっとした劣等感というのが有ったのだけれど

第二回目のとき
デヴァさんが自身の覚えとして用意して来た手書きのテキストに

“ド”
とか
“ドッ”
とか

音とリズムのニュアンスをカタカナ表記してるのを目にし

あ!

この人も同じかも…

凄く頭の回転が速くキレる人では決してなく

ただ
音楽ってなんなのか
ずーっと愚直に探し続けて来た人

ただただ続けて来た人

そして
人の意識を変容させる力が音には有ると気づき
そしてその音の力を操れるようになった人

そういう人なんだ、きっと!

と直観。

五線譜が読めない俺でも
そういう音の力を操れるようになれる
そういう可能性を夢想しても良いのかも

と思わせてくれる

そんな存在がデヴァさんで
デヴァさんのWSでした。

近日5/21
デヴァさんの還暦祝いの翌日
第三回目開催です♪


“ハートビート”

それは心音
鼓動

人が母の胎内に命宿り
最初に意識が捉える感覚
それが心音なんじゃないかと
ふと

心臓が出来上がったとき
意識が芽生えるとき

個の誕生の原点

太鼓の音ってそういうことなのかも

原点回帰

グラウンディング


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by kei-grande | 2017-05-17 01:02 | Outros その他 | Comments(0)