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この赤だったか

「ビルマの土は赤い…」のナレーションで始まる
映画『ビルマの竪琴』(モノクロ版)を思い出す


ミャンマーの色
夏用シャツ
これ着心地サイコーだから
頂き物

手織り
手染め
手縫い

距離を越え人の手を感じさせてくれるモノ




“理由、違います

僕たちの世代と
今の若いヤツら

若いヤツらは口開けば
「イチジカン イクラ デスカ?」
(ミャンマーと日本の貨幣価値は1:7 )
毎月5万送れたら
もうそれだけで大きいです
みんなそう思って日本くる
でも仕事厳しい
お金安い
難しい

若いヤツらは日本に居てもお金しか見てないです
日本の良いところ見る気持ちない
言葉難しいだから日本語話そうとしない
それじゃダメ
友達できないです

若い奴らは見る目がない

困ったとき助けてくれるのはお金じゃないよ
仲間だよ
難しい言葉わからなくても簡単な言葉で友達なれます
友達たくさんいたら仕事来る
お金勝手に入ってくる

1時間いくらの仕事しててもお金入ってこない
お金だけ見てたら生きる意味ないです

人生は楽しい一番
仲間いなければ
楽しくないです
仲間で助け合って仕事お互い回したら
お金は勝手に入ってくる

若いヤツらそこわかってない
若いヤツらは…”


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と語るのは出稼ぎ世代ではなく亡命世代のゾーさん。

元学生運動のリーダーで国を追われ
地下ムエタイのファイターを経て
日本で事業を興し
名古屋ミャンマー人社会の顔役

「水さえあったら、御飯が茶碗一杯でもお腹膨れます、だから水大事!」
底を知ってる人の言葉はずっしりと地に着いた重み



言葉の問題と音楽って似てるな、とか思って
難しいこと喋ろうとしなくても
簡単なことで結構楽しめたり
楽しい時間を共有したら自然と仲良くなれるし

みたいな。

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去年に引き続きの「ミャンマー水かけ祭り」
ユルくユルく出店

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ミャンマーの若いヤツらにハセガワさんのヤバい仕事を
スゲー仕事を見せたいんだ
と声かけていただき

光栄です

なお励みます。



…映画のような人生もゴロゴロしてる
話を聴いてみると案外

面白い






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# by kei-grande | 2017-06-16 20:06 | Projeto 企画 | Comments(0)

「アート」って…なに?

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先日
「アート」な香り高い場所へ

https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=1689585791344165&id=100008782806069

人前で対談をするという初めての機会を頂きました

「職人」という言葉も
太鼓作りに置いてはまだいまいち自分のなかでしっくりとは来ていない感じなんですが

果たして自分は職人といえるほどの突出した技をもっているのか?
という疑問
同時に
じゃ、まだ見習い程度か?
というと
それもまた違う
この拙さを持って自分の価値を問おうという肚は座ってる


じゃ、「作家」?
「職人」とは何が違うの?

または「アーティスト」?

「アート」ってなに?

アートという言葉が「藝術」と翻訳されたのは確か明治に入ってからのこと
わりと新しい言葉

じゃぁ、まず「藝」ってなに?

芸能・武芸・芸事…

どうも、この「芸・藝」という字は
喰ってくためには一見有っても無くてもどちらでも良いこと
直接的生産に関与しない
ハレ・とケで云えばハレ事に関わる技
音楽、舞踊、など祝祭を彩る技術
そんなニュアンス

「術」とは
広く暮らしのスベ
それぞれの暮らしの営み全般に置ける身体運動をより楽に
より構造の理にかなった身使いへと
工夫に工夫を重ねた歳月の分だけ深みを増し続ける
言ってみれば
筋力など加齢と共に必ず衰えるモノから来る力に頼らない
“力の性質の転換の技”(これを中国では功夫という)の道筋こと
と仮定する

それは生まれ持った才能じゃない
若き天才はいても
名人、達人と言われる人は必ず老人であるという事実

技の上限を限定しないで工夫をし続けることでどこまでも進化・深化し続ける道筋
それがたぶん「術」という言葉に含まれた意味

ということは「藝・芸」も「術」も同じことと言っていい
「術」の方が概念としてはより広く、その中に「藝」の概念が包摂されてる

ということは
「術」はハレもケも含み
「藝」はハレ事オンリー

「藝術」という言葉は

藝+術=藝(ハレ)+術(ハレ・ケ)=2ハレ+ケ

で、ハレの要素が強く印象づけられている
そんな勝手な推測…

だから

日々喰うのにカツカツの俺たちには藝術ってよく分からんし
なんか難しいんでしょ
お高いの?

みたいな
雲の上の話みたいな印象なのかも

昔なんかの雑誌で読んだ
スペイン語では日本語的な感覚でのゲージュツ家といわゆる職人どちらもアルチザン(アーティスト)と呼ぶって

ポルトガル語でもやっぱり
Artesão

日本語にすると響きが違うけど
要は同じってことですね

さらにアートの始原を
語源を音からたどれば
それは古代インドの思想哲学にある
“アートマン”に辿り着くんじゃないかと

まったく根拠はないけどね

ブラフマン・梵
アートマン・我


ブラフマンは宇宙の原理原則
アートマンは自己存在の中心

梵と我
部分と全体は等価である
とする考え方を
『梵我一如』
という

陰陽太極とよく似てる
っていうか
同じコトを違う切り取り方で捉えてるだけ
文化的違いだね




どうしようもなくそれがしたい
という身の内からの衝動
自己存在の中心からの欲求

それがハレであれケであれ
日常茶判事であれ祝祭事であれ

アートマンの働きと共に在ること
それがアートだ!


どうしようもなく太鼓が作りたい
どうしようもなく身体を整えたい
どうしようもなく土に触りたい
どうしようもなく裸足になりたい

これはアートマンの働きだ

どうしようもなく富士山麓の現状をなんとかしたい
どうしようもなくケモノを捕らえたい
どうしようもなくホネが好き
どうしようもなく解体が好き
どうしようもなくダニが好き
どうしようもなく“神の一杯”の珈琲が淹れたい

全部アートだ

どうしようもなく絵が描きたいことや
どうしようもなく音楽が創りたいことや
と同じアートだ

やりたいことをやる
それがアートマンひいては等価であるところのブラフマン
世界の根本原理に従うこと…

そういう話?






…先日のお話会のなか、鹿をテーマに扱った豆さんの作品に込めたメッセージに対し

「アートの本筋から離れてる!それはアートのすべきことではないのでは?」

みたいな
参加して下さったある方からの発言を受けて…

俺なりにモヤモヤしてた「アート」と「職人」について
考えてみたこと。

ちなみに今、太鼓関しては
年季奉公が明けて独り立ちして数年くらいの
“脱新米中の職人”
みたいな感覚がしっくり来る






『ボディワーカーもミュージシャンと同じアーティストだと思ってるよ
技術を持つ人はみんなアーティストだって』
:Deva


『アートじゃ喰えん って意味わからんし』
:白砂勝敏



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# by kei-grande | 2017-06-05 19:49 | Outros その他 | Comments(0)

“底へ” ソコから

シンプルに
きっちりと
そのモノに求めるトコロを明確に絞り
余計な仕事は省けるだけ省く

そうしてはじめて底にたどり着くんだと
自分の仕事の底にたどり着けるんだと

押さえるべきところを押さえてこそ
ソコからはじめて仕事の価値を計れるんじゃないかと

自分のなかのシンプルの極みを探求




楽器という
生活に有っても無くてもどうでもいいようなモノを
どうしようもなく作りたいという衝動
この欲求を満たすには趣味でやってちゃ続けれない
きっちり仕事として
自分の世界観を
世に問いたい

仕事とは
自分の存在価値を世に問うこと
なんだと思う


じゃ、このとことんシンプルに余分を省いた仕事にいったい
どれだけの価値を着けるのか?

相場?

いや違う

俺はこれを作るのに
こんだけのエネルギー量を投入した

と自分自身明確にした上で
自分自身で価値を着ける
または相手との相対関係のなかで価値を決める

相場は関係ない


それでイイんだと
開きなおろう

これがパンデイロなのか否かさえどうでもイイ

面白いと思って求めてくれる人があるならそれでイイ


工業製品にはない歪さ

技の“匠”的な、機械よりも高い精度の手仕事とも違う

テキトーでテーゲーで
こんなんでイイの?
いや、イイね!
っていうユルさ

そういうモノに価値を見出したい
そういう仕事に価値を付与したい

やり過ぎないイイ具合の按配

なんだか窮屈な日常に
ユルくヌケた按配を



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# by kei-grande | 2017-06-05 17:05 | Pandeiro パンデイロ | Comments(0)


人から学ぶことが苦手でした

言われたことを言われたようにただやる
これが出来ない

なぜ出来ない?
と言われても
身体が動いてくれない

そんな
損な
性格で

自分の身体が動きやすいやり方で
それが出来るようになればいいんでしょ?

とか思って
すぐ自分流にアレンジし
自分勝手に好き放題やって
人とうまく歩調を合わすことが出来ずに衝突することもしばしば
だから『愚乱児』という名前がついたりする…

メンドくさい生徒でした。


ここのところ
デヴァさんのケテWSを楽器提供という形で加わらせて貰ってて
ふと





誰よりも早く到着して楽器を降ろし
人を集めて参加者を募り
WSが始まれば
じっとデヴァさんの音を聴き
デヴァさんが主役場の空気感に
如何に違和感なく参加するか
参加してくれた人が
楽しいかった
また来たい
と思える環境を作るには
自分はどう振る舞ったらいいのか
自分の役割を探る

『音楽を一から勉強し直せ!』
(一も二もなく、あんまり深く考えたことすらなかったんだけど)
と一喝してくれたデヴァさんの捉えてる音楽観とは一体どんな世界観なのか
今にも跳び出しそうな“我”をじっと抑えて
目前に拡がっている音の世界をじっと観察する

WSが終われば大量の太鼓をパズルのピースを埋めるように車に積み込みながら
その日のWSの成功を嬉しく思う

…なんかこの感覚って…『弟子』的感覚?


学ぶとは
とにかく観察することなのかも

よく観て
察すること

出来る出来ないよりもまず
観察すること

ただそれだけなのかも


ただ観察する
ただその世界観を観る

そうすることで跳び出しそうな“我”が発見できる

それがオリジナルな自分
それが自分の世界観

それは他者が有って初めて認識できるコト
自分だけ見てても自分のことはわからない

他人が観えて自分が観える
自分を知るには他人を知らなければ

自分に出来ること自分がしたいことは
人を観察することで観えてくる

観察の対象として観れば
人はみんなお師匠さん

…みたいなことが40にしてようやく腑に落ち始めたこの頃です。


“講義の始まる時間に来て終われば帰るのが、生徒。
講義の準備から片付けまでまたそれ以外でも師と共に過ごすのが、弟子。”

:Mestre Rene (たしか…)



ご縁に感謝(^_^)


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# by kei-grande | 2017-06-01 21:45 | Outros その他 | Comments(0)

何をしたらいい
何はしない方がいい

その按配をどう見極める?

そのあたりがここのところの身の回りでのさまざまに共通するキーワードのような…


山のことしかり

鹿を獲るか獲らないか
木を伐るか伐らないか


身体のことしかり

陰陽表裏の虚実のまさにちょうどイイ按配





太鼓もしかり

こと、修理においてもまた。

ここのところ立て続けて話が来た二つのアタバキ修理
それぞれ別口からルートながらじつは同じグループで演奏してる仲間だった…
という話は置いといて

続けて修理するなか

どこまで手を入れるか
どこまでで停めるか

その按配をどう見極めるか…

とにかく触りながら眺めながら
叩きながら
それを作った職人の込めた想いを読み解きながら

その上に“私”は
“私の培って来た技術”を持ってどう絡んでいくのが
その太鼓にとってより面白い展開になるのか探り探り…

濃いぃ〜セッションみたいな感覚で




みたいなことを
音楽で
様々な人と音を合わせるなか
気にし出したこのごろ。


そんなことを考えるようになったのは
どうしたら
どうなる
みたいなのがだんだんと見えて来たからこそ
…なんかなぁ

技術の世界
底なしの深さで面白い

みんながみんな
それぞれに得意な部分でそれぞれのスタイルで
“職人”に徹したのなら

自分以外の“職人”の仕事にたいして
やってることは違っても
身体感覚として共有できる部分の幅は間違いなくひろがる
感覚的な共鳴は他者を理解することに繋がる…
他人の仕事を認めることは
自分の仕事を認めることに繋がる…

そんな気がする

我も良し
彼も良し
みんな良し

良いも悪いもみんな良し

だから自分は自分のやりたいことを
やりたいようにやる

で良いんじゃないかな
いろいろ

とか
そんなことを考えながらの日々太鼓日和。



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To do or not to do...
That is the appearance of each sensibility.
Neither a correct answer nor an incorrect answer is there.

これが良い按配だという決まった形なんてない
有るのはただ
それぞれの感性に応じた
それぞれにちょうど良い按配
それだけだ



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# by kei-grande | 2017-06-01 18:08 | Reparacao 修理 | Comments(0)