太鼓と音と記号、大地と身体と心

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太鼓屋で店を出しながら
太鼓は一個も売らず

気持ちの良い音楽のもと
ふだんよりも沢山の人の身体を触り整えつつ
太鼓で遊び
太鼓に学ぶ

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翌日は富士山麓の環境について
太鼓屋の目線と整体観から話をし

今週末の橋の下世界音楽祭では
WS出店をしつつ一方では
「まぐあいを聴き語る会」に太鼓で盛り上げ役と整体観という部分で関わる





自分の持ってるモノで人様のお役に立てるんなら
なんでも節操なく

…というここのところのスタイル

さまざまな場で出会うさまざまな人の
暮らしの多様性
多様な価値観と触れるなか
それぞれを根底で突き動かしている情動の
それぞれ違うモノ同士がココに置いて共有できる
共鳴できる感覚のポイントって

この感覚ってナイヤビンギでのハートビートの感覚に等しい
根底にあってすべてを支えてるモノ
それが了解できれば
そこを共有してさえいれば
違いは対立しない
違うモノ同士が一つのウネリに乗れる
かえって
みんな違うからこそそれぞれの持ち味が光る
その場限りの
そこに居合わせた人が
作り出す
生きた音楽
地に足の着いた血の通った音楽が生まれる…


どんな音楽でもその根底に在るところに着地出来たら
着地点さえ見つけれれば
誰でも遊べるモノ

なんじゃね?
音符という記号ありきが音楽ではなく
音楽をデータ化可視化したソフトが音符なんだという話で。

どんな価値観であれ
お互いが一緒に立てる地点を見つけれさえすれば
違いは対立を産まない
人は誰とでも遊べる…

それぞれに違う命
喰い喰われるという関係性においても
それは同じことなんじゃないか
命の根底に潜れば
喰い喰われは
活かし活かされ
と同じこと

なんじゃね?
みたいなことを
感じつつ

そんな感じのなかから
また思うこと…



【生と性と死、心と身体とタブー、そしてグラウンディング】

“心”と“生”の二つが合わさってなる“性”

心=脳の働き

であるなら

身体感覚=脳の働き

すなわち
身体感覚は心の一角をなすといえる



身体感覚とは“生”より芽生える

であるなら

“性”とは身体感覚感覚に基づく心の働きのこと
身体感覚=性

といえる。



身体感覚に基づく“性”という脳の機能は同時に、
ともすれば浮遊しがち思考(全体として捉えた心という脳の働き)を
リアルな“生”に繋ぎとめる役を担っているともいえる。

「地に足の着いた血の通った知」
それが“性”という字の表す概念
なんじゃないかと…

という前提で“性”を考えると
男と女、微妙な身体構造の違いが微妙な“心”の働き方の差を生むのはなっとくできる話。
たとえ同性であろうとみんな違う身体
みんな違う考え方をするのはそこから来てる。
実際の形の違いが脳の働き方に違いを生むのだと。



つぎに“生”の対義語、“死”について考えてみる。

一皮剥けば、ヒトもケモノもどれも似たようなモノ
同じような肉、同じような骨、同じようなハラワタ
開いた腹から立ち昇るのは血と糞尿と、その他なんなのかわからないけどあらゆる“命”を形作っていたモノすべての入り混じった匂いの湯気

このビジュアルや匂いから喚起されるイメージ、それがたぶん“死”の概念。

だけど自分自身の“死”は死なないかぎり絶対に!体感出来ない
ということは
自分自身の“死”という概念は生きてるかぎり絶対に自身の体感として認識することはできない浮遊したイメージでしかない
といえる。
「地に足の着いた血の通った知」では認識出来ない概念であると。


わからないから怖れる
見たくないから蓋をして
無いことにして置きたい

体感としての“性”で捉えることの出来ない“死”という概念を喚起させるモノを遠ざけたいという心理がタブーを生む?

“臭いものには蓋” 的な
死=臭い



もう一つのタブー
“性”の字が持つもう一つの側面、エロについて

エロスの対義語はタナトス
エロスとは萌え上がる“生”エネルギー
タナトスとは否応なく背中を押される“死”への一本道

死はタブーで生までもタブー
まぁ、生も臭いからね

なんのこっちゃいだけど
ここで陰陽という概念を引っ張り出して考えてみるとスッキリする

陰は陽に陽に陰に、それぞれ極まりに置いて転化するのが『道tao』で語られるエネルギーの変化の法則

生の極まりが死であり
死の極まりが生


タブー視されているのは生死そのものではなく“極まり”?

あ!
だから極道はタブーなんだ

“極まり”=タブー

極まりとは正反対の性質へとひっくり返るトコロ…

変化を嫌う

これが“心”の本質なのかも!

一方で“性”はリアルな身体感覚に応じてコロコロと形を変える
一見すると不確かなモノ
だから頼りにならない
と“心”は判断するのかも
リアルな世界は常に変化し続けて留まることなんてないのに。

そこんところ
“性”と“心”の喧嘩
これがコリになって身体を縛るんだろうな
ふと。



・後書き的な…

観察者がいなければ世界は存在しない
世界はすべて幻なんだというこの世界観

あぁ量子論ね
っていうくらい認知された感のある世界観

そういう前提でみれば世界は自分しだい
という非常に面白い価値観

…なんだけど
何か引っかかる違和感…
その正体がわかった

それは浮遊感

地に足が着いていない感覚
身体感覚で捉えがたいんだよね

それぞれの人が見ている世界は
それぞれの意識のフィルターを通したモノしか見えない
見えないモノ=存在しない

理論としてはわかるけど…

しかし世界は厳然として在るモノなんだと
“性”の部分で感じていることを
感じた今朝

狩猟解体のプロフェッショナルと
昨晩の対談での違和感を振り返るなか

ふと。

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感覚に蓋をしても
いつか溢れ出す
否応なく押し寄せてくるモノ

それは突然襲ってくるぎっくり腰のような

厳然とあって常に関わらざるを得ない
関わらなければ関わらないほど
蓋をすれば蓋をするほどに

ドカンっと関係性を迫ってくるモノ

それが自然
自分の身体も含めた
自分の意識の世界の向こう側

あちらとこちら

どちらもあって一つ

『一陰一陽これを道という』:老子






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by kei-grande | 2017-05-22 19:40 | Outros その他 | Comments(0)